イケナイ始まり


ペタペタと廊下を歩く音。かかとを踏み潰された靴はスリッパのような音を立てていた。

「で、先生に担当していただくのは3-Zです。」

白衣姿でその白衣と同じように白く、どこか銀色に光るようにも見える髪を持つ男が少しハゲている年配の教師について校内を歩いていた。ぴょこぴょこ跳ねた髪は天然パーマのせいもあるが恐らく1/3くらいは寝癖だろうと思われる。

「坂田先生、人の話聞いてます?」

彼の名前は坂田銀八。大あくびをしたところでハゲの教師にため息をつかれた。

「はは、やだなぁ聞いてますって。で、なんですか?」

ハゲに青筋が見えた。




坂田銀八は今日この学校に赴任してきた教師だ。赴任初日からヨレヨレの白衣でズレ落ちそうなめがねをかけて、ポケットに手を突っ込んでいる。正直若いのに若く見えない。妙な貫禄さえあるように感じられる。いい意味ではなく、なんかダメな大人の貫禄というか、そんな無駄なものだ。

先程からこの学校の教師に校内案内をされている。ハゲた先輩教師は時々つまらないギャグを挟みながら「ウチの学校は〜」と楽しそうに話している。銀八には右から左へ抜けていくただの音にしか聞こえていなかったが。

与えられた仕事をこなして、金さえもらえればいい。正直教師を職業に選んだのは一回なってしまえば安定した収入は得られるし、自分の知識を話していればいいのだからこんな楽な職業はないと思ったからだ。分かりづらかろうがなんだろうが、成績が悪いのはテメェが真面目にやってないからだ、家でもっと復習しろと言えばそれで済む。接待だのなんだのくだらないことに金を使わずに済む。

ただ、それだけだった。


ぼんやりとハゲ教師の話を聞きながら廊下の窓から見える校庭を眺めた。日が傾きかけた午後の校庭には野球部、サッカー部、陸上部等が走り回っている。先輩が大声を出して後輩に指示をしている。後輩が泥だらけになりながそれに喰いつく。

「若いねぇ・・・。」

もう自分にはない熱を遠く下の地面から感じた。一生懸命打ち込めるものなんて、当の昔になくした。今はただ一人、繰り返されるような日々を淡々と過している。

汗が太陽に照らされ光を放つ

そんな言葉とは程遠い生活だ。
毎朝決まった時間に起きて、軽くニュースを見ながら朝食をとって、目の下にクマを作ったまま家を出る。満員電車に揺られて、サラリーマン達のため息を聞きながら通勤する。

お前等もいつかそうなるんだよ。

死んだ魚のような目で熱く青春を送る子供達を冷たく見下ろしていた。


ドンッ

「あっ。」

背中に何か当った。振り返ると黒髪の男子生徒が尻餅をついていた。

「いっつつ・・・。すんません。」

尻を擦りつつ、その生徒は立ち上がった。野球部らしく、泥の付いたユニフォームを着ている。

「こら!土方!廊下を走るな!!坂田先生、大丈夫ですか?」

土方と呼ばれたその男子は悪ぃと笑って見せた。悪いと思っていない笑顔だ。

「先生、メガネは?」

ハゲ教師が指摘して気付いた。先程までかけていたメガネの感覚がない。もしかして。そう思って窓の外を見てみると下の芝生の上に太陽の光を反射しているものがかろうじて見えた。恐らくアレだ。

「土方!お前!」
「やべっ。悪ぃ!えっと・・・坂田先生。」

頭をかいてやっちまったという顔で謝る。別にどうせダテメガネだ。落ちたところでどうとも思わない。

「土方くーん。監督が早くしろって呼んでるよー。」

後ろから女子の声が聞こえる。体育着姿だ。

「ゲッそうだった!!」

マネージャーだろうか。土方の腕を引っ張るようにして急かす。楽しそうなその顔から、多分この土方という男を好いているのだということが分かる。この歳の恋愛模様なんて手に取るように銀八には分かった。くだらない。おままごとのような恋愛だ。

「もぉ、また寝てたんでしょー。ホラ、行くよ。あ、失礼します。」
「すんません。」

ペコっと頭を下げるとバタバタと二人は廊下を走っていった。二人の後ろから「だから走るな!」とハゲ教師が叫んだ。

「すみません、先生。」
「いいですよ。後で取りに行きますから。」

向きを銀八の方に向けてハゲ教師が謝った。なんでコイツが謝るのか分からない銀八。それすらもどうでもいいことなのだが。

「あの生徒はいつもああなんですか?」
「ああ、土方のことですか?そうだ、アイツ坂田先生のクラスですよ。秀才で頭はキレるんですが、よく授業サボるんで困ってるんですよね。」
「ふぅん。」

ろくに授業に出ないのに何故か勉強が出来るヤツは大体どこにでも居るものだ。銀八の場合は出来るというより運がいい様に転んでここまでの人生を来たようなものだが、まあ似たようなものだ。
四階に上がろうと歩き始めた時、校庭から声が聞こえた。

「おーい、銀八先生ー!」

窓から顔を出すと、土方がメガネを片手に持って叫んでいた。

「コレ、悪かったなー!部活終わったら返しに行くから、職員室で待っててください!」

―――アレ?・・・名前・・・俺言ったっけ?・・・―――

「別にいいよ。んなモン。」

銀八は手を払うように動かしてどうでもいいと言うかのように答えた。それでも土方は

「物を粗末にしちゃダメですよ。じゃ、後で。」

そう言って仲間の輪に戻って行った。

「ははっ。」

銀八から笑い声が漏れた。謝罪の言葉なんかその場だけと思っていたのに、ちゃんとメガネが落ちたことを律儀に覚えていたらしい。

後の学校案内はもうそれまで以上に頭に入らなかった。元より構造は下の階と大して変わらないのだから別に案内されなくても分かる。それに加えて、銀八の頭には土方の姿がチラついていた。自分にはない輝きがまぶしかった。今を楽しんでいるのが痛いほど伝わってきた。

いつからこんなに世界が汚れて見えるようになってしまったんだろう。

校内を一通り回り終えて職員室に戻ってまだダンボールが積みあがっている自分の机に座る。他の教師はパラパラと適当な挨拶をして帰って行く。タバコに火をつけ、久しぶりに呼吸をしたかのように深く深く吸い込む。早死にするとしたら糖尿か肺ガンだろうななんてくだらない事を考えながら。

時計の針はゆっくりと時を刻む。

おかしなものだ。20何年という時間はこんなにもあっというまに過ぎてしまったというのに。秒針の音は狂いなく一秒のリズムを保っていた。その音に心臓の音を寄り添わせるようにすると徐々に眠気が襲ってきた。とっちらかったこの机を早く整理しなければと意識の底で思いながらそのまま椅子にもたれかかった。



「―――せい。先生。」

遠くからだんだんと近づいてくる声。その声に耳を傾けるとだんだんと意識がはっきりとしてくる。瞼を重力に逆らって持ち上げる。いつの間にか寝ていたらしい。

「オイ、銀八先生!」

名前を呼ばれて振り返る。そこには学ランに着替えた土方が立っていた。

「職員室で爆睡とかありえねぇっすよ。」

ケラケラと笑いながら土方は銀八にメガネを手渡した。

「本当に返しに来たのか。」
「当然。すんませんでした。落としちまって。」

礼を言って受け取って、銀八はソレをかけた。その様子を土方は不思議そうに見つめる。

「なんだ?」
「いや、なんでダテメガネかけてるんですか?」
「ああ。そのほうが頭良く見えるだろ?」
「そんだけ?」
「そんだけ。」
「なんだそりゃ。変な先生。」

また笑った。
箸が転がっても面白いという年頃だろうか。恐らくたくさんの表情を持つであろうこの男子生徒がやはり銀八には輝いて見えた。否、羨ましく思えた。

「ありがとな。暗くならない内に帰れよ。」

そう言って銀八は腕を上に伸ばすとダンボールを抱えて立ち上がろうとした。
しかしそれは叶わなかった。
三つほど重ねて持ったせいで、一番上のダンボールがバランスを崩して落ちる。何を思ったかソレを片手で取ろうとして、もう片方の手が二つの重さに耐え切れずグラつく。

「わっわっ!」

全部を取ろうとして身体ごとバランスを崩した銀八は荷物と一緒に後ろに倒れこみそうになった。

「バっ、危ねぇ!!」

土方の腕が銀八の背中に回され、崩れるのを支えた。荷物は床に重たげな音を立てて落ちたが。

「大丈夫ですか!?」

音を聞きつけて、近くに居た他の教師が駈け寄ってくる。銀八は支えていた土方の腕から反射的に逃げ出して、床にしゃがみこんだ。

「オイ、先生・・・。」
「あ、ありがとな。すみません大きな音出して。大丈夫です。」

白衣を払って散らばったダンボールをまた積み上げだす。それを見ていた土方は重ねられた二つを軽々と持ち上げた。

「え、ちょっ・・・。」
「担当教科は・・・理科か。準備室に運ぶんだろ。手伝いますよ。」
「いいって。」
「アンタ、危なっかしいから。それに先生を手伝ったらいい事有りそうだし。」

ニヤリと笑ってスタスタと歩き出した。銀八は残されたもう一つのダンボールを持ち上げて慌ててそれを追った。
理科準備室は階段を上がって三階の奥。土方は電気を肩でつけて中に入っていく。先任の教師の荷物は何もなく、棚も机もがらんとしていた。置き放題だ。
ダンボールを床に置くとふぅと土方は一息ついた。

「なんもねぇのなー。」
「有り難う。悪かったな。」
「いいって。その代わりお礼はくださいね。」
「分かったよ。」

銀八は出席日数を一回か二回オマケしてやろうと思った。大体学生ってものは単位のことしか考えていない。先生と仲良くするのは単位が欲しいから媚びているだけだ。
そんな事は慣れていた。

「じゃ、もう帰っていいぞ。遅くなると親御さん心配するだろ。」

土方に背を向けてダンボールを空け始める。

「先生は帰らないのか?」
「ああ、少し整理してからな。」
「ふーん。」

教科書やら参考書やらを取り出して机に並べていく。背中に視線を感じながら。荷物を運んでくれた人物が帰らない。見られながら何かをするというのは非常にやりづらい。

「帰らないのか?」
「だって先生”帰ってもいい”っつったから。帰らなくてもいいんですよね?」

そういう意味で言ったんじゃないって分かっているくせに土方は笑いながらそう答えた。

「あのなぁ・・・。」
「なんでそんな寂しそうな顔してンだよ。」

銀八は顔を片手で簡単に振り向かせられた。目の前に土方の顔がある。胸がトクンと音を立てた。

「は?なんだよ。」
「気になってしょうがないんですけど。廊下で会った時から。」

目の奥を覗き込むように見つめられ、銀八は思わず視線を逸らした。同時に身体が熱くなるのを感じる。

「お前、何言って・・・。」
「気になってしょうがないんだ。」

気付いた時には後頭部を大きな手で押さえられ唇が相手のそれと重なっていた。
銀八は何が起きたのか分からず瞬きを繰り返した。しかしそれは一瞬で、何をされているのか脳に伝達された。
我に返って突き放そうとした時にはもう遅く、土方の力で動きは封じられていた。

「んーっ!!」

言葉を発しようと口を少し開いた瞬間、土方の舌がそれを割って入ってきた。驚いて顔を逸らそうとするが、土方の手で頭は押さえられていて動くことが出来ない。

「んぅっ・・・む・・・!」

徐々に絡んでいく舌は狭い口内を逃げ惑うが無駄な抵抗だった。自分の意識に反して相手の舌を迎えにいってしまう。歯列をなぞられ、唇を甘噛みされて銀八は脳がとろけそうになるのを必死に堪えていた。
チュクチュクと互いの唾液が交わる音が、静かな準備室に響く。

無意識の内に銀八は両手を土方の背中に回して学ランを掴んだ。

「ふぅ・・・ん・・・っ・・。」

唇の角度を変える度、吐息と共に小さく声が漏れる。それは先程までの何か言いたげなものではなくて勝手に出てしまうものだった。
銀八の頭がぼーっとして全身の力が抜けそうになったその時、土方は唇を離して銀八を見つめた。

「ぁ・・・?」
「スゲ、先生エロい。」

名残惜しそうに口から覗く銀八の舌からツーッと一筋の唾液が零れた。土方は口の端を吊り上げるとクッと喉で笑って

「じゃ、先生、俺帰るわ。」

そう言って立ち上がった。

「土方。」
「お礼、しっかり貰いました。」

己の唇を親指でなぞってそう言うと、鞄を持って準備室を後にした。

「オイ、土方!!」

名前を呼んだ声はドアを閉める音にかき消された。

残された銀八は暫く呆然とした後、今の状況をようやく把握して赤面した。今自分が誰と何をしていたか。可笑しな感情に支配されかけている自分。

「ぅわ・・・マジで・・・?」

とうに忘れたはずの熱が身体に戻ってきたのを感じた。冷静になろうとしてもなれない。




「ヤベ・・・なんだよ。コレ・・・。」



理科準備室に銀八は座り込んだまま、動けなくなった。

言いようもない何かが身体に入り込んだ。

胸が、苦しい。



赴任初日、早速生徒と先生の危ない関係を体験した銀八だった。








fin.

*3-Zです。ちょっとなんかもー小説の設定と無視で妄想で突っ走りました。楽しかったからいいと私は思います。ん?アレ?作文?
土方と銀八の出会い編です。続きで恋愛発展編とか書けたら書きたいと思います。3-Zとか・・・なんていうか、随分と美味しい設定なんだろう。